Thursday, June 01, 2006

絶対的正義に立ち向かうドン・キホーテ 佐々木俊尚

絶対的正義という名の風車に立ち向かうドン・キホーテ 佐々木俊尚

■ 佐々木俊尚 2006/05/22 16:54 「ことのは」問題を考える http://blog.japan.cnet.com/sasaki/2006/05/post.html
# このエントリーは少々長い。要約してみる。

社会の共通基盤が失われ、細分化されたスフィア(異なる文化圏)が生じた。スフィア同士の相互理解は難しい。松永英明が日本社会にどう受け入れられるのかは相互理解のケーススタディーだ。オウム真理教は我々自身の縮図である。オウム真理教と日本社会のギャップは、日本と中国や韓国とのギャップである。そうした断絶や認識のズレがインターネットで埋まることを期待しているが、今の日本社会には漠然とした社会正義があり、それがネットでは絶対的正義として表出する。泉あいは、そうした絶対的正義を振りかざす人々に指弾されている。

# ここから下、このエントリーからの引用。

佐々木 :個人として贖罪意識っていうのはありますか。
松永 :ピンと来ないってところはあるんですよね。あそこのサイトにも書いたサリン事件の日の話もアレですけど、まるっきり別のところで起こっているというか、例えば日本の中で誰かが犯罪を犯しましたと言ってもピンと来ないっていう。たまたまそれが知ってる人でした。或いは同じ教団の内部で、或いはある程度の人数が固まってそういう動きをしてましたっていうと「ええ、そんなことしてたの?」みたいなところはやっぱりありますよね。
 この発言に対して、絶対的な社会正義を盾にとって「誠意がない」「嘘をついているのだろう」と批判するのはたやすい。しかしそうした議論は結局のところは水掛け論の域を出ることはできず、生産的なことはなにひとつもたらさないように、私には思えてならない。私が彼の発言から考えたかったのは、そうではない。そうした批判の刃を盾の内側から投げることではなく、そのような発言がなぜ今も松永氏から発せられているのか――それを知りたいということだった。
# 「絶対的な社会正義」の初出。

絶対的な社会正義、絶対的正義、絶対的批判、絶対的な社会正義、絶対的正義、絶対的正義、「絶対的権威を背景に、一方的な社会的正義」、絶対正義、絶対正義、絶対的正義、絶対的正義、絶対的正義、絶対的な正義、絶対正義、絶対的な正義、絶対的正義、絶対的正義

# 同様の表現が実に17回。
# この発言は、BigBangらの努力を「水掛け論」として無に帰そうとする、印象操作である。

日本と中韓、オウムと日本社会の間に横たわっているのは、決定的な認識のずれと、絶望的なまでのコミュニケーションの断絶だ。それは実のところ、日中韓やオウム-日本社会だけでなく、先に挙げた『断』のコラムで書いたように、いまや社会の至るところに偏在しているように思える。

# 日本と中韓、オウムと日本社会とでは、状況、過去の対話のされかた、向き合い方が全く異なる。
# 少なくとも日本と中韓の間では、友好関係を保っている人々がいる。
# 真摯に対話している者たちを侮辱する表現である。
# 「オウム対日本の問題を日本対中韓の問題に」これぞ、オウムのプロパガンダの踏襲である。

 だが蓋を開けてみれば、そうしたオープンジャーナリズム的行為に対するインターネットの世論は、GripBlogの炎上に象徴されるように、絶対的批判に終始した

# 佐々木俊尚の中では、すでに終わった問題になっている。

 その批判にはかなりの部分、的を射ている部分があるのは否めないし、私は反論する材料は持っていない。結局のところ、絶対的な社会正義に抗するというのはとても難しい作業なのだ。
 とはいえ、私にはそうした「絶対的正義を声高に主張すること」への拭いがたい不信感があるし、そうした声が大きくなることへの危機感もある。


# 「かなりの部分、的を射ている部分がある」が、ほとんどおまけのように出てくる。
# 間違っていることを、間違っていると批判するのは、当たり前である。
# 全ての批判者が、建設的な対話を行っておらず、非建設的な「絶対的正義を声高に主張」しているかのような書き方は、印象操作であり、対話のプロセスを破壊するものである。
# もはや、批判がいけない、という風にしか読み取れない。果たして、佐々木俊尚は、批判することなしに、テロリストを受け入れられるというのだろうか?

 だからこそ、初期のジャーナリストブロガーはあちこちで炎上した。「南京大虐殺が無いと言ってる連中は退化した猿だ」といった意味のエントリーを書いた新聞記者のブログや「コメントを大量に書く連中はネット右翼だ」みたいなことを書いた専門家ブログが炎上したのは、彼らが何かの権威によりかかって「おまえら下々の言っていることは間違いだ」という絶対正義みたいなものに対する嫌悪感だったのではないかと思うのである。多くのブロガーは「あんたらの言ってる絶対正義って、本当は根拠はないじゃないの?」と彼らの言説を相対化しようと、対抗論陣を張ったのだ。マスメディアのポストモダン化を図ったのである。

# 初期のジャーナリストブロガーが炎上したのは、権威だからではない。馬鹿なことを書いたからであり、馬鹿な対応をしたからである。

 ネットの中に絶対的正義が醸成されてきてしまった背景は、どこにあるのだろうか。
 オウムに対して日本社会の中には、呆然と恐怖心だけが残り、それが漠然とした社会正義へとつながっている。その社会正義はひどく漠然としているけれども、言論としてネット上に出現したとたんに、絶対的な正義として表出される。漠然から絶対正義へと至る変容がなぜ生まれるのかは私にはまだよくわかっていないのだけれども、90年代以降の社会が生み出した宙に浮いたような抽象的なオウムへの恐怖心が、ネット空間にも流れ込み、ある種の空気として漂っているということなのかもしれない。その暗い空気を言論化すると、それは絶対的な正義へと転換してしまうということなのかもしれない。そうであれば、オウム真理教と同種の恐怖が今後もさまざまに社会の中に生じていけば、同じことは次々と起きる。

# 「絶対的正義」が具体的にどこにあるのか、佐々木俊尚から明かされることはない。なぜなら、それは彼自身の中にあるからだ。絶対的正義という名の風車に立ち向かうドン・キホーテ 佐々木俊尚。

 しかし私は今でも、マスメディアが声高に書いてきた絶対的正義の向こう側に、フラットになった言論の世界が誕生し、そこにインターネットのジャーナリズムの可能性があると信じている。なにがしかのその可能性が、単なる楽観主義でないことを、私は今ただひたすら祈っている。

# 自分で作り出した風車を投げ出して、憂慮しておしまい。
# さすがにプロは巧みである。直接誰かを批判することなく、圏外から言葉を繰り出し、世論を操る、言葉の傀儡師。
# 以上、これがプロのジャーナリストであるから、悪質である。

1 Comments:

Anonymous Anonymous said...

余裕があったら、次は歌田氏をお願いします。

10:58 PM

 

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